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    干支

    出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』

    干支
    01
    甲子
    02
    乙丑
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    丙寅
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    丁卯
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    己未
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    庚申
    58
    辛酉
    59
    壬戌
    60
    癸亥

    干支(かんし、えと)は、十干十二支を組み合わせたものである。十干十二支(じっかんじゅうにし)、天干地支(てんかんちし)の略。1012最小公倍数60なので、干支は60期で一周することになる[1]。そのため六十干支(ろくじっかんし)ともいう。中国アジア漢字文化圏において、方位角度、ことがらの順序をあらわすのにも用いられ、陰陽五行説とも結びついてさまざまな占いにも応用された。古くは十日十二辰十母十二子とも呼称した。

    起源は(殷)代の中国にさかのぼる。日・月・年のそれぞれに充てられ、60日(ほぼ2か月)、60か月(ほぼ太陰太陽暦5年)、60年などをあらわす。幹・肝と、枝・肢と同源であるという。ベトナム北朝鮮韓国日本などに伝わった。

    なお、日本語で「えと」という場合、ね、うし、とら、う、たつ…の十二支に割り当てられた動物(十二獣)の総称であるかのような用法がよくみられるが、後述するように、「え」も「と」も本来は十干に由来するものであって、厳密には誤りである。

    目次

    [編集] 概略

    十干の10の要素からなり、十二支の12の要素からなっており、あわせて干支と呼ぶ。

    [編集] 十干

    十干 日本語 中国語 朝鮮語 ベトナム語
    音読み 訓読み 意味
    こう きのえ 木の兄 jiǎ 갑 (gap) giáp
    いつ、おつ きのと 木の弟 을 (eul) ất
    へい ひのえ 火の兄 bǐng 병 (byeong) bính
    てい ひのと 火の弟 dīng 정 (jeong) đinh
    つちのえ 土の兄 무 (mu) mậu
    つちのと 土の弟 기 (gi) kỷ
    こう かのえ 金の兄 gēng 경 (gyeong) canh
    しん かのと 金の弟 xīn 신 (sin) tân
    じん みずのえ 水の兄 rén 임 (im) nhâm
    みずのと 水の弟 guǐ 계 (gye) quý

    [編集] 十二支

    十二支 日本語 中国語 朝鮮語 ベトナム語
    音読み 訓読み
    자 (ja)
    ちゅう うし chǒu 축 (chuk) sửu
    いん とら yín 인 (in) dần
    ぼう mǎo 묘 (myo) mão/mẹo
    しん たつ chén 진 (jin) thìn
    사 (sa) tỵ
    うま 오 (o) ngọ
    ひつじ wèi 미 (mi) mùi
    しん さる shēn 신 (shin) thân
    ゆう とり yǒu 유 (yu) dậu
    じゅつ いぬ 술 (sul) tuất
    がい hài 해 (hae) hợi

    [編集] 干支概略史

    亀甲獣骨文字ウシ肩胛骨に甲骨文字が刻されている)、上海博物館
    殷商帝室の系譜

    干支はすでに商()代に現れており、殷墟出土の亀甲獣骨からたくさんの干支が日付をあらわすために用いられている。もともと干支は、60進法による紀日・番号・数字であった。殷代ではこれを「十日十二辰」と呼称していたようである。甲骨文には、干名のみで日をあらわすこともあり、祖王の名を「祖甲」「父丁」など、その人に関連する特定の干名で呼ぶ例があることから、十二支よりも十干の方がより基本的であったことが伺える(これについては、殷の天子の一覧 も併せて参照されたい)。

    春秋戦国時代に、世界の成り立ちを木・火・土・金・水から説明する五行説が起こって上を母、下を子に見立てて「十母十二子」と呼ぶようになった。さらにそれを幹と枝にたとえて「十干十二支」あるいはそれを縮めて「干支」という表記が定まったのは、後漢代からである。

    月や年をあらわすために干支を用いるようになったのは、殷代よりも後世に属する。月に関しては、殷代までさかのぼる可能性もあるが、広く普及したのは、戦国時代以降である。

    年をあらわすには、古来、著しい事件や帝王即位年を基準とすることが多かったが、戦国時代の中ごろになって木星(歳星)の天における位置によって年を指し示すことが考案された。後述のように、この方法がやがて発達し、当初は木星の位置により、次には十二支により、代には干支の組み合わせによって年をあらわすことが広くおこなわれるようになった。

    1日24時間を十二支に分けるようになったのも漢代である。十二支に対して十二獣を充当することは代にもみられるが、文献における初出は後漢代からである。また、「外事には剛日を用い、内事には柔日を用いる」[2]とされたのも漢代であり、これは、戦国時代の陰陽家の影響を受けている。

    方位への応用も、陰陽五行思想と結びついたことによって漢代に広がった。

    ただし、全八巻が「四庫全書」にも収められているの時代に編纂された兵書である「神機制敵太白陰經」 [3]李筌編)のうち、巻九「遁甲巻」において、夜半、鶏鳴といった十二時による時刻名とともに、この時刻の干支は云々と記載されているので、時刻を干支で呼ぶ習慣の定着には長い時を要し、唐の時代にはまだ古い記憶の名残があったと推測できる。

    [編集] 干支による紀日

    亀の甲羅に書かれた甲骨文拓本)。複数の卜占のことが記されているが、たとえば、左から3行目冒頭に癸酉と見える。

    干支紀日法(干支によって日付を記述する方法)は、上述のとおり、すでに殷代の甲骨文に現れている。

    西洋では1月を4分割して「」(7日)というサイクルを編み出したが、古代中国では1月を3分割して「」(10日)というサイクルを考案し、十干という順序符号をつけた。甲骨文には「卜旬(ぼくじゅん)」があり、これは、ある特定の日(癸の日)から向こう10日間の吉凶を占ったものである。[4]10日、すなわち十干を3回繰り返すと1か月(30)になるので、十干と十二支を組み合わせると、2か月(60日)周期で日付を記録することになる。

    ある日を甲子とすると、第2日が乙丑、第3日が丙寅というように進んで第60日の癸亥へと進み、第61日に至ると再び甲子に還って日を記述していった。これは、3,000年以上経った今に至るまで、断絶することなく用いられている。また、干支紀日は『日本書紀』など東アジア歴史書にも広く使用されている。

    殷代においては、干支はもっぱら紀日法として用いられ、年に関しては1より始まる順序数(自然数)を使用しており、月に関しても順序数を基本としていた。ただし、月名を十二支で表記することはあったとされる。

    なお、現在のような1日、2日、3日…という順序数による紀日法がいつ始まったかはわかっていないが、現在のところ、山東省臨沂県(りんぎけん)から出土した銀雀山漢墓竹簡、および武帝7年(元光元年、紀元前134年)の暦譜竹簡の例が最古とされている。

    中国でも日本でもはしばしば改定されているが、干支による紀日は古代から連綿と続いており、古い記録の日付を確定する際の有力な手がかりになる。

    [編集] 干支による紀月

    上述のとおり、月名を十二支で表現することは殷代にさかのぼる可能性がある。古くより中国では冬至を含む月を11月とする習わしがあり、この月を「子月」と呼び、以下12月を「丑月」、正月を「寅月」と呼んだ。

    こうした呼び方は戦国時代よりあったが、さらに月名に十干を加えることは代にはおこなわれており、その場合の配当は年の干名によって各月の干が割り当てられた。たとえば、寅月についていえば、甲や己の年は、乙や庚の年は、丙や辛の年は、丁や壬の年は、戊や癸の年はとなる。つまり、干名が甲である年の寅月は「丙寅月」となる。詳細は、下表に示す。

    月の十二支 節気の区切り 中気 旧暦 新暦の月 甲・己年 乙・庚年 丙・辛年 丁・壬年 戊・癸年
    寅月 立春—啓蟄 雨水 正月 2月 丙寅月 戊寅月 庚寅月 壬寅月 甲寅月
    卯月 啓蟄—清明 春分 二月 3月 丁卯月 己卯月 辛卯月 癸卯月 乙卯月
    辰月 清明—立夏 穀雨 三月 4月 戊辰月 庚辰月 壬辰月 甲辰月 丙辰月
    巳月 立夏—芒種 小満 四月 5月 己巳月 辛巳月 癸巳月 乙巳月 丁巳月
    午月 芒種—小暑 夏至 五月 6月 庚午月 壬午月 甲午月 丙午月 戊午月
    未月 小暑—立秋 大暑 六月 7月 辛未月 癸未月 乙未月 丁未月 己未月
    申月 立秋—白露 処暑 七月 8月 壬申月 甲申月 丙申月 戊申月 庚申月
    酉月 白露—寒露 秋分 八月 9月 癸酉月 乙酉月 丁酉月 己酉月 辛酉月
    戌月 寒露—立冬 霜降 九月 10月 甲戌月 丙戌月 戊戌月 庚戌月 壬戌月
    亥月 立冬—大雪 小雪 十月 11月 乙亥月 丁亥月 己亥月 辛亥月 癸亥月
    子月 大雪—小寒 冬至 十一月 12月 丙子月 戊子月 庚子月 壬子月 甲子月
    丑月 小寒—立春 大寒 十二月 1月 丁丑月 己丑月 辛丑月 癸丑月 乙丑月

    [編集] 干支による紀年

    紀年法とは、を記したり数えたりするための方法のことで、中国を中心とした漢字文化圏では年号紀元にもとづく紀年法とともに、60年周期の干支による干支紀年法が併用されてきた。その起源は木星の観測と深い関わりがある。

    [編集] 歳星紀年法

    歳星紀年法は、天球における木星の位置にもとづく紀年法である。

    中国の戦国時代にはじまった。木星は約12年で天球上を一周し、十二次(天球を天の赤道帯にそって西から東に12等分した12の区画)を1年に一次進む。そこで、木星は年を示す星であるとして「歳星」と呼び、木星十二次における位置でを記した。たとえば「歳在星紀(歳、星紀に在り)」は、木星天球上の「星紀」という場所に存在する年という意味である。

    [編集] 太歳紀年法

    太歳紀年法は、木星の鏡像である太歳天球における位置にもとづく紀年法である。

    木星天球上を十二次に沿って西からに進むが、当時の人たちがよく使っていた十二辰(天球を天の赤道帯に沿って東から西に十二等分した区画、十二支が配当された)に対しては、運行の方向と順序が逆であった。そこで、木星の円軌道に一本の直径を引き、その直径を境に木星と線対称の位置に存在する太歳という仮想の星を設定し、その十二辰における位置で年を記すようにしたものである。

    中国の戦国時代には、この直径はの起点との起点とを結んで引かれ、たとえば、「太歳在寅(太歳、寅に在り)」という記述があれば、その年は太歳の位置に存在する年、つまり木星の位置に存在する年のことである。その翌年は「太歳在卯」となり、太歳木星に位置する。

    さらに、「太歳在寅」「太歳在卯」と記録するかわりに、太歳が位置する各「年」に名称を設けて使用することが行われた。

    太歳の位置
    歳名 摂堤格 単閼 執徐 大荒落 敦牂 協洽 涒灘 作噩 閹茂 大淵献 困敦 赤奮若
    セッテイカク タンアツ シュウジョ ダイコウラク トンショウ キョウコウ トンタン サクガク エンボウ ダイエンケン コントン セキフンジャク

    漢代に入ると、『淮南子』天文訓に「淮南元年冬、天一在丙子」と記述されるように、十干と組み合わされて干支太歳の位置が記述されるようになった。

    この太歳の位置を示す十干にも歳名がつけられた。

    太歳の位置
    歳名 閼逢 旃蒙 柔兆 強圉 著雍 屠維 上章 重光 玄黓 昭陽
    アッポウ センモウ ジュウチョウ キョウギョ チョヨウ トイ ジョウショウ チョウコウ ゲンヨク ショウヨウ

    この十干(歳陽)と十二辰(歳陰)の歳名とを組み合わせ、たとえば、ある年を閼逢摂堤格とすると、その翌年は旃蒙単閼、第3年は柔兆執徐…となり、第60年の昭陽赤奮若にいたると、ふたたび閼逢摂堤格から始めるという60年周期の歳名とした。

    ただし、木星の公転周期は正確には11.862年であるため、実際には一年に一次と少し進んでいることになり、約86年に一次(太歳は一辰)ずれることになる。これを「超辰」と呼ぶ。この超辰によるずれを解消するため、顓頊暦では、太歳を設定するための直径をの起点との起点に引き、始皇帝元年(紀元前246年)を木星にあり、太歳にある年とする新しい基準を設けた。

    前漢太初元年(紀元前104年[5]の改暦(太初暦)では、超辰をおこない、丙子丁丑に改めた。のちに三統暦の補正では超辰は114年に一次ずれると定義し、太初元年を再び丙子に戻し、太始2年(紀元前95年)を乙酉から丙戌へ超辰するとした。これによって三統暦による太歳紀年とのちの干支紀年は太始2年から見かけ上、同じになる。

    [編集] 干支紀年法

    阪神甲子園球場バックネット裏入口(改修工事前)

    後漢建武26年(西暦50年)は、当時使われていた劉歆三統暦の超辰法に従うならば、庚戌辛亥とすべき年であった。にもかかわらず、光武帝に随従していた学者たちは超辰をおこなわず、庚戌のまま紀年を続けた。さらに元和2年(西暦85年)の改暦では三統暦の超辰法自体が廃止された[6]。これ以後、木星を観測して、その位置でを記録されることはなくなった。ここに、木星の運行とは関係なく、60年周期の干支を1年毎に機械的に進めていく干支紀年法が用いられるようになったのであり、絶えることなく現在までつづいている。

    これは、後代に干支が伝来した朝鮮や日本とも共通であり、たとえば日本の甲子園球場は、完成した1924年大正13年)が甲子の年にあたることからの命名である。

    民間では干支のうちの十二支の部分だけを用い、それに動物を配当した生肖紀年法が今も広く用いられている。なお、広開土王碑12世紀成立の高麗朝による正史三国史記』の干支に1年の違いがあるなど、時代や地域によっては必ずしも一定しないことも散見される。

    [編集] 生肖紀年法

    詳細は十二支を参照

    十二支と十二獣[7]がいつから結びつけられたのは不明であるが、1975年湖北省雲夢睡虎地の代の墓から出土した竹簡には既に現在のように動物[8]が配当されている様子が伺われる。

    後漢の王充が著した『論衡』物勢篇では、十二支を動物名で説明しており、これによって干支の本来の意味が失われ、さまざまな俗信を生んだ。ただし、日、月、時刻方位などを干支で示す慣習が廃れた今日でもなお、干支紀年に限っては今なお民間で広く定着している要因ともなっている。日本の風習である年賀状[9]などにも動物の絵柄が好んで描かれているが、下表のとおり、配当される動物には国により違いがみられる[10]

    各国の十二獣
    日本の十二獣  
    中国の十二獣
    台湾の十二獣
    韓国の十二獣
    チベットの十二獣
    タイの十二獣
    ベトナムの十二獣 水牛 山羊
    モンゴルの十二獣 ・虎
    ロシアの十二獣 猪・豚
    ベラルーシの十二獣 兎・猫

    [編集] 干支紀年と日本

    干支紀年の日本への伝来時期はよくわかっていない。日本に中国の暦本百済を通じて渡来したのは欽明天皇15年(554年[11]とされるが、実際には、それ以前にさかのぼる可能性が高い。

    埼玉県行田市埼玉の埼玉古墳群の一つ、稲荷山古墳から出土した金錯銘鉄剣には「辛亥年七月中記」の紀年があり、銘中「獲加多支鹵(わかたける)大王」を雄略天皇とする考えが主流であることから、「辛亥年」を471年とする説が有力である。ただし、これに対しては531年とする反論もある。

    一方、和歌山県橋本市隅田の隅田八幡宮に所蔵されている人物画像鏡には、「癸未年八月日十大王年男弟王在意柴沙加宮時斯麻念長寿…」という銘文が鋳されており、この「癸未年」は、「男弟(おとど)王」が継体天皇と考えられることから、503年とする見方が有力である[12]

    [編集] 朝鮮史と干支紀年

    韓国北朝鮮では、歴史的事件の名称をあらわすのに干支紀年を用いることが多い。元来、朝鮮半島の諸王朝では元号宗主国である歴代中国王朝の元号をそのまま使用していた。現代においてそうしないのは、こんにちの中国で元号が使用されなくなり、宗属関係をもとにした国際秩序もまた過去のものとなったためであることは言うまでもないが、それを過去にまで遡及させる方法はナショナリズムにもとづく姿勢と言ってよい。

    [編集] 陰陽五行説との結びつき

    詳細は陰陽五行思想を参照

    [編集] 陰陽五行説と十干

    陰陽五行説では、十干に対し、天運をあらわす木、火、土、金、水、(もく、か、ど、こん、すい)の五行にそれぞれ陰陽1対を配してあらわす。十干を訓読すると、甲(きのえ)、乙(きのと)、丙(ひのえ)、丁(ひのと)、戊(つちのえ)、己(つちのと)、庚(かのえ)、辛(かのと)、壬(みずのえ)、癸(みずのと)となり、五行の性質が明解となる。語尾の「え」は陽(剛)、「と」は陰(柔)をあらわし、これで陰陽をあらわしている。日本語における語源は「え」が、「と」がであり、「えと」の呼称はこれに由来している。

    [編集] 陰陽五行説と十二支

    十二支にも五行が配される。四季に対応する五行は、が木、が火、が金、は水であり、土は各季節の最後の月にあたり、季節の変わり目をあらわす。土用の丑の日は夏の最終月(土用)のの日という意味である。各季節に十二支を配すると、

    • …寅(木)、卯(木)、辰(土)
    • …巳(火)、午(火)、未(土)
    • …申(金)、酉(金)、戌(土)
    • …亥(水)、子(水)、丑(土)

    となる。

    陰陽五行説が起こったのは、中国の戦国時代であり、騶衍五行思想陰陽思想が結びついていったものである。これが干支と結びついて干支五行説として天地間の森羅万象における根本原理であると考えられるようになったのである。

    [編集] 五行説と干支

    相生と相剋

    詳細は五行思想を参照

    上記のように割り当てられた十干と十二支それぞれの五行は、その組み合わせによって吉凶を占うことができるとされる。代表的なものを下に掲げる。

    • 相生」…この関係は、天地陰陽の気が調和を保ち、万事が順調に進んで吉とされる。
      • 木生火(木は火を生じる)
      • 火生土(火は土を生じる)
      • 土生金(土は金を生じる)
      • 金生水(金は水を生じる)
      • 水生木(水は木を生じる)
    • 相剋」…この関係は、天地の平衡が失われるため凶とされる。
      • 木剋土(木は土を剋す)
      • 土剋水(土は水を剋す)
      • 水剋火(水は火を剋す)
      • 火剋金(火は金を剋す)
      • 金剋木(金は木を剋す)
    • 比和(相勝)」…この関係は、同気が重なるため、五行それぞれの性質を強め、良い場合はますます良く、悪い場合はますます悪くなるとされる。

    他に、相侮相乗がある。

    [編集] 時刻と方角

    干支は、また時刻方位角度をあらわすのにも用いられる。

    [編集] 時刻

    時刻については、現代の23時から翌1時までをの刻とし、以下、丑、寅、…と続いて、11時から13時までをの刻とした。現在、12:00を「正午」、正午より前を「午前」、正午より後を「午後」と称するのは、これに由来する。怪談などで用いられる「草木も眠る丑三ツどき」とは今日でいう午前2時半ころのことである。

    なお、日本で初めて中国伝来の暦日を遵用して、時刻に十二支を配し、子を真夜中としたのは推古天皇12年(604年甲子の年)の正月のことであった[13]とされる。平安時代延喜年間に編纂が始まり延長5年(927年)に完成した「延喜式」でも、宮中の諸門の開閉や日の出日の入りの時刻について、「申四刻六分」のように十二支を用いて示している。

    [編集] 方位

    詳細は方位を参照

    指南」(漢代)
    二十四方
    恵方

    十干は、五行説によって説明されるようになると五行があらわす方位である五方と結びつけられた。さらに、のちには十二支や、における八卦を交えて細かい二十四方が用いられるようになった。

    十二支では、北を、南をの方位としている。経線を「子午線」、経度0度のロンドングリニッジ天文台を通る経線を「本初子午線」と称するのは、これに由来する。

    二十四方では、東と西はそれぞれに配当されるほか、北東・南東・南西・北西がそれぞれ「うしとら」[14]、「たつみ」[15]、「ひつじさる」、「いぬい」と呼ばれ、該当する八卦から、「(ごん)」、「(そん)」、「(こん)」、「(けん)」の字を充当している。指南の実物を見るかぎり、南を指すためのレンゲの形状の磁石を置いた板の模様は、六壬神課で使用する式盤の地盤の形状に酷似している。

    なお、二十四方(下表参考)では、十干のうちのは用いられない。したがって、十干のうちの8、十二支の12、八卦のうちの4を合わせての24方位となる。

      漢字 中国語 日本語( 日本語( 角度 方位
    1
    2 guǐ みずのと 15° 北北東微北
    3 chǒu ちゅう うし 30° 北北東微東
    4 gèn ごん うしとら 45° 北東
    5 yín いん とら 60° 東北東微北
    6 jiǎ こう きのえ 75° 東北東微東
    7 mǎo ぼう 90°
    8 いつ きのと 105° 東南東微東
    9 chén しん たつ 120° 東南東微南
    10 xùn そん たつみ 135° 南東
    11 150° 南南東微東
    12 bǐng へい ひのえ 165° 南南東微南
    13 うま 180°
    14 dīng てい ひのと 195° 南南西微南
    15 wèi ひつじ 210° 南南西微西
    16 kūn こん ひつじさる 225° 南西
    17 shēn しん さる 240° 西南西微南
    18 gēng こう かのえ 255° 西南西微西
    19 yǒu ゆう とり 270° 西
    20 xīn しん かのと 285° 西北西微西
    21 じゅつ いぬ 300° 西北西微北
    22 qián けん いぬい 315° 北西
    23 hài がい 330° 北北西微西
    24 rén じん みずのえ 345° 北北西微北

    十二支が方位と結合していくのは、漢代のことと考えられている。漢代には易の解釈学である「象数易」という学問が隆盛し、そこでは、易のや、それを構成するに、十二月、十二律(音律)、十二辰(支)、二十四節気、五行、方位などが配当され、きわめて複雑な理論が編み出された。

    なお、歳徳神の在する方向とされる恵方(えほう)は、その年の干名によって定められている。

    [編集] 干支にかかわる伝承や俗信

    干支が十二獣や陰陽五行思想と結びついたことで、さまざまな伝承や俗信が生まれたが、日本に伝来すると日本固有のものとも習合して独自の俗信を生んでいった。なかには、(さる)の日は「去る」と通じるので結婚式をおこなわないなどというものもあった。

    [編集] 還暦

    数え年の61歳は、生まれた年の干支に戻るので、「暦が還(かえ)った」という意味で「還暦(かんれき)」といい、歳をとる正月には、公私ともに正式に隠居して長寿の祝いをした(東洋にあっては誕生日の概念は乏しかった)。この年齢に達すると親族などが赤い頭巾ちゃんちゃんこを贈るのは、もう一度赤ちゃんに戻って「生まれ直す」という意味合いをこめている[16]。現在は、60歳の誕生日や60周年に還暦の祝いをすることが多い。なお、半周(30年)のときは半還暦、2周(120年)した場合は大還暦という。

    中国では「花甲」、韓国では「還甲」といい、日本と同じように60年の長寿を祝い、無病息災を願う習慣が今も続いている。

    [編集] 辛酉革命、甲子革令

    中国漢代緯書にみえる予言説(讖緯)である。中国よりもむしろ日本で信じられた。

    辛酉天命が改まる年とされ、王朝が交代する革命の年で辛酉革命という。日本では、平安時代に政治的変革が起るのを防ぐ目的で、三善清行の提唱によって、辛酉年の昌泰4年(901年)が「延喜」と改元された。それ以来、日本では明治に至るまで、辛酉年と前年の庚申年の2年続きで改元が行われてきたが、中国ではこのような改元例はない。

    また、『日本書紀』では、神武天皇が即位したとする年を西暦紀元前660年の辛酉の年にあてている。これについて、明治時代の歴史学者那珂通世は、『緯書』にある鄭玄の注に、1260年に一度(干支一周の60年(1元)×21元=1260年=1蔀)の辛酉年には大革命が起こるとの記述があることから、推古天皇9年(601年)がその年に当たり、この1260年前にあたる西暦紀元前660年を即位年にあてたとの説を立てた。また、1320年(60年×22回=1320年)周期説を採用する学者もあり、その場合、辛酉の3年後にあたる甲子年が革令(甲子革令)の年であり、白村江の戦いの翌年の甲子年(西暦664年)が基点とされる。

    甲子革命については、中国でも、後漢末に太平道の教祖張角光和3年(180年)に「蒼天已死 黄天當立 歳在甲子 天下大吉(蒼天(漢朝)已に死す 黄天(黄巾党)當に立つべし 歳は「甲子」に在り 天下大吉)」とのスローガンを発しており、干支にもとづく易姓革命を意識して光和7年(184年)という甲子の年に黄巾の乱をおこした史実がある。

    [編集] 庚申(こうしん)

    神奈川県藤沢市伊勢山公園の庚申塔(にちなみ三猿が彫られている)

    詳細は庚申塔を参照

    近代以前の日本では、庚申の日にはばひろく庚申講が行われたが、これは道教伝説に基づいている。

    中国の言い伝えによれば、人間の頭と腹と足には三尸(さんし)の虫がいて、いつもその人の悪事を監視している。三尸の虫は庚申の日の夜の寝ている間に天に登って天帝に日頃の行いを報告し、罪状によっては寿命が縮められるとされる。そこで、三尸の虫が天に登れないようにするため、この日には徹夜しなければならないとされた。これを「守庚申」という。また、中国では、庚申の日には、菜食するのがよいとも言われていた。

    日本では、「庚申さま」として庚申の日そのものも神格化された。庚申の日の夜は村人が集まって神々を祀り、その後、寝ずに酒盛りなどをして夜を明かした。これを庚申講という。庚申講を3年18回[17]続けた記念に建立されたのが庚申塔で、今も各地に残っている。

    なお、日本には、庚申の晩に生まれた子は盗人になるという言い伝えもあった。

    [編集] 丙午(ひのえうま)

    陰陽五行説によれば、もともに剛強なる陽であっての性格をもち、中国ではその年は火災が多いなどといわれていた。

    それが日本では、八百屋お七丙午の年(寛文6年(1666年))生まれだという風説があった[18]ところから、丙午の年に生まれた女性は気性が激しく、の運勢を圧倒して連れ合いを短命にするという俗信に変化した[19]。しかし、これは男性中心主義の見方であり、迷信俗説に類するものであるが、日本では丙午年の出産が避けられて、新生児の数が他の干支の年よりも少なかったりする(最近では1966年(昭和41年)。その反動もあり、翌年の丁未の年は新生児の数が例年よりも増える)。なお同様に火の重なる丁巳(ひのとみ)だが、これは八専の一つである。

    [編集] 干支と年中行事

    端午の節句江戸時代鯉のぼり)、『日本の礼儀と習慣のスケッチ』(1867年)より

    干支は、二十四節気雑節と結びついて、各地でさまざまな行事がおこなわれている。

    中国の漢代には、正月最初のの日には皇帝で耕し、皇后で蚕床をはらって、祖先神蚕神をまつる行事があったといわれている。

    この行事は、古代日本にも伝播しており、正倉院には使用した鋤と箒が現存している。正月初子(はつね)の日に、山野に出て若菜をつみ、若松をひいて長寿を願った行事が、『小右記』にも記された「子の日のお遊び」であり、平安時代の宮中の年中行事であった。

    それ以外で著名なものとしては、

    などがある。

    [編集] 選日

    [編集] 天赦日

    干支相生の日とされた天赦日は、「よろずよし」の大吉日と考えられてきた。春(立春から立夏前まで)は戊寅、夏(立夏から立秋前まで)は甲午、秋(立秋から立冬前まで)は戊申、冬(立冬から立春前まで)は甲子の日である。

    [編集] 三隣亡(さんりんぼう)

    詳細は三隣亡を参照

    選日のひとつ。1月・4月・7月・10月のの日、2月・5月・8月・11月のの日、3月・6月・9月・12月のの日を三隣亡という。棟上げなど建築に関することの凶日とされる。

    [編集] 十方暮(じっぽうくれ)